2025年7月4日(金) 無心の境地

無心の境地

日本の芸道において理想とされる境地が「無心」です。

ここでいう無心とは、文字通りに心が無いという意味ではなく、妄念としての心の働き、すなわち「とらわれ」がなくなった状態を指します。

例えば、過去の経験や知識に縛られず、偏見や先入観から解放され、邪念のない純粋な心で物事に向き合うことができる状態です。

私たちは、何かを考えたり判断する際に、過去の経験や知識に縛られたり、自分の趣味趣向に執着してしまうことがよくあります。

それが効果的に作用する場合もありますが、特定の事象や対象に心が向いてしまうと、他の選択肢や可能性を見落とすことにつながります。

もちろん、一朝一夕で無心の状態になれるわけではありません。また、訓練しても、芸道の熟達者のように妄念や執着から自由になるのは難しいでしょう。

しかし、目指すべき境地があることを知っておけば、選択肢や可能性を狭めることなく、日々の仕事や作業に臨めるのではないでしょうか。

今日の心がけ◆とらわれない心を目指しましょう

出典:職場の教養7月号

感想

「無心の境地」という言葉には、どこか静けさと深遠さが同居しています。

この文章を読んで感じたのは、私たちが日々の生活や仕事の中で、どれだけ思い込みや過去の経験にとらわれているかという事実に気づかされるということです。

特に日本の芸道における「無心」は、単なる無感情や無関心とは異なり、むしろ高次の集中と純粋さの象徴です。

それは、「心をなくす」のではなく、「心の曇りを拭い去る」行為なのだと感じました。

「とらわれない心を目指しましょう」という今日の心がけも非常に印象的です。

すぐに完全な無心にはなれなくても、何かに執着しすぎている自分に気づくこと、それ自体が無心への第一歩だと感じます。

とらわれを手放すということは、裏を返せば新しい視点を得るということでもあります。

無心は、自己否定ではなく、むしろ自分をもっと自由にするための境地なのかもしれません。

否定的な感想

「無心」という概念にはある種の抽象性や理想主義も感じられました。

たとえば、「とらわれない心を目指す」と言っても、人間は感情の生き物であり、過去の経験や価値観を完全に手放すことはほとんど不可能です。

それどころか、それらがあるからこそ人間らしい判断や感受性が育まれる面もあります。

無心を目指すあまり、自分の内面にある自然な感情や個性まで否定してしまうと、それは自己喪失にもつながりかねません。

また、芸道における「無心」は、多くの場合、長年の厳しい修練を経て得られるものであり、一般的な生活の中でそれを理想として掲げるのは、やや現実離れしている印象も受けました。

現代の忙しない社会において、常に無心であることを求めるのは、自分を追い詰めてしまう危険もあります。

むしろ、「とらわれている自分を自覚すること」こそが、今の私たちにとって等身大の実践なのではないでしょうか。