もののあはれ
江戸時代の国学者、本居宣長が重んじた「もののあはれ」という精神は、物事に触れたときの自身の心の動きを、素直に感じ取る感性を指します。
自然の移ろいや儚さ、人の感情の機微など、無常の中にこそ美しさを覚えるという感覚を、私たちはどれほど持てているでしょうか。 また、そうした機会を得られているでしょうか。
東京商工リサーチの調べによると、各企業による「お花見、歓迎会、懇親会」の開催率は、コロナ禍の二〇二二年はわずか五・三%でした。 これは、二〇一九年の五一・八%から大きく低下しており、最近の二〇二四年の調査でも、二九・一%とコロナ禍前の水準には程遠い状況です。
美しい自然を眺める、人の新たな一面を知るなど、人の心が動き、感性が磨かれる要因は、心身を通して感じられる直接の触れ合いの中にあります。 感性を損なえば創造性も衰え、日常生活での感動の機会も少なくなります。
心震える瞬間が一日にどれだけあるか、見つめ直してはいかがでしょうか。
今日の心がけ◆人や自然と交わる機会を持ちましょう
出典:職場の教養4月号
感想
「もののあはれ」という言葉を聞くと、どこか古めかしくて高尚なイメージを持ってしまいがちですが、このお話を読んで、実は今の私たちが最も忘れかけている「心の余裕」そのものなんだと感じました。
効率や生産性が重視される現代社会では、どうしても無駄を省くことに必死になってしまいます。
お花見や懇親会といった行事も、数字だけを見れば「コスト」や「時間の浪費」に見えてしまうのかもしれません。
でも、桜が散る様子を見て胸が締め付けられたり、宴の席で同僚の意外な優しさに触れて心が温かくなったりする瞬間こそが、私たちの人生に彩りを与えてくれているのだと改めて気づかされました。
データとして示された開催率の低下は、単に集まりが減ったという事実以上に、私たちが「心を動かすチャンス」を自ら手放してしまっている危うさを物語っている気がします。
画面越しの情報共有だけでは、風の冷たさや相手のちょっとした表情の陰りまでは伝わりません。
直接触れ合うことでしか得られない、言葉にできない微細な感情の動きこそが、自分という人間を豊かにし、新しいアイデアを生む土壌になるのではないでしょうか。
毎日をただ忙しく消化するのではなく、立ち止まって何かに心震わせる時間を、もっと自分に許してあげてもいいのかもしれない。
そんな風に、自分自身の日常のあり方を優しく問い直したくなるお話でした。
否定的な感想
今の時代に「人や自然と交わる機会」を持つことが、どれほど個人の負担になっているかという視点が少し欠けているようにも感じてしまいました。
確かに、直接会って感性を磨くことは理想的ですが、コロナ禍を経て私たちが手に入れたのは「無理な付き合いを断る自由」でもあったはずです。
かつての高い開催率が、本当に全員の「もののあはれ」に繋がっていたのかと言えば、疑問が残ります。
中には、気乗りしない飲み会や、形式だけのお花見に心をすり減らしていた人も多かったのではないでしょうか。
集まりが減ったことを単純に「感性の衰退」と結びつけてしまうのは、少し一方的な見方のような気がして、心がざわつきました。
また、現代における「心震える瞬間」は、必ずしもリアルな集団行動の中だけにあるわけではないと思うんです。
静かに一人で本を読んだり、誰にも邪魔されずに夜空を眺めたりすることでも、十分に深い感動は味わえます。
むしろ、無理に外に出て社交を強いることが、かえって感性を鈍らせてしまうことだってあるはずです。
この文章が提案する「交流」の形が、もし昔ながらの組織文化や慣習の復活を肯定するだけの内容だとしたら、それは少し時代に逆行しているのではないかと感じてしまいます。
今の私たちが求めているのは、集まりを増やすことではなく、自分にとって本当に大切なものとだけ向き合える、質の高い孤独と感性の守り方なのかもしれません。
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